大判例

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最高裁判所第三小法廷 平成2年(オ)1231号 判決

上告人

白蓮院

右代表者代表役員

梶原慈文

上告人

常光寺

右代表者代表役員

細井琢道

上告人

行法寺

右代表者代表役員

數井慈鑑

上告人

常修寺

右代表者代表役員

水谷慈浄

上告人

善福寺

右代表者代表役員

髙橋信興

上告人

要蔵寺

右代表者代表役員

浦上然道

上告人

本修寺

右代表者代表役員

木村真悟

上告人

法喜寺

右代表者代表役員

河本普道

上告人

善行寺

右代表者代表役員

青木慈伸

上告人

蓮生寺

右代表者代表役員

五十嵐我道

上告人

本顯寺

右代表者代表役員

白井浄道

右一一名訴訟代理人弁護士

色川幸太郎

宮川種一郎

松本保三

松井一彦

中根宏

中川徹也

小林芳夫

竹内美佐夫

大口善徳

被上告人

古谷得純

佐野知道

近藤済道

西本暁道

原田知道

田村竜道

内山法堂

岡﨑信靖

岩城久道

鹿児島常道

佐野縁道

右一一名訴訟代理人弁護士

小見山繁

河合怜

川村幸信

山野一郎

小坂嘉幸

江藤鉄兵

加藤洪太郎

富田政義

華学昭博

片井輝夫

伊達健太郎

仲田哲

竹之内明

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人色川幸太郎、同川島武宜、同宮川種一郎、同松本保三、同松井一彦、同中根宏、同中川徹也、同猪熊重二、同桐ケ谷章、同八尋頼雄、同福島啓充、同宮山雅行、同若旅一夫、同千葉隆一、同吉田麻臣、同松村光晃、同漆原良夫、同小林芳夫、同石井次治、同竹内美佐夫、同大口善徳の上告理由について

上告人らの請求は、上告人らが、本件各建物の所有権に基づき、それぞれ被上告人らに対し、その明渡しを求めるものであるが、原審は、要するに、上告人らの包括宗教法人である日蓮正宗が被上告人らに対してした懲戒処分(以下「本件処分」という。)の効力の有無が本件請求の当否を決する前提問題となっており、その効力の有無が本件紛争の本質的な争点となっているとともに、その効力についての判断が本件訴訟の帰すうを決するものであるところ、右の点の判断をするためには、本件処分における懲戒事由の存否及び懲戒権限の有無等を審理する必要があり、かつ、それは日蓮正宗の教義ないし信仰の内容に深くかかわるものであるから、結局、右宗教上の問題に立ち入らないで争点の核心につき審理、判断することができないとし、最高裁昭和六一年(オ)第九四三号平成元年九月八日第二小法廷判決・民集四三巻八号八八九頁に従い、上告人らの訴えは、その実質において、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に該当しないとして、これを却下している。

所論は、原審の右の判断の違憲、違法をいうが、本件記録によって認められる上告人らが本件訴訟を提起するに至った本件紛争の経緯及び当事者双方の主張並びに本件訴訟の経過に照らせば、本件訴訟の争点を判断するには、宗教上の教義ないし信仰の内容について一定の評価をすることを避けることができないことは否定し得ないのであるから、本件事案の下において上告人らの訴えを却下すべきものとした原審の判断は是認することができる。原判決に所論の違法はなく、右違法のあることを前提とする所論違憲の主張も失当である。論旨は採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官佐藤庄市郎、同大野正男の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官佐藤庄市郎、同大野正男の反対意見は、次のとおりである。

宗教団体における宗教上の教義、信仰にかかわる事項については、裁判所がこれを審理、判断することは許されず、また同様に、具体的な権利義務ないし法律関係の紛争の解決を求める訴訟においても、宗教団体における宗教上の教義、信仰にかかわる事項についての判断がその前提問題として避けられない場合に、これについて審理、判断することは許されないというべきである。しかし、そのことから、直ちに当該訴訟それ自体が裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に該当しないということはできず、この場合には、当該事項についての宗教団体の自律的な決定を尊重するなどして請求の当否を判断すべきものと解するのが相当である。

これを本件についてみるのに、上告人らが被上告人らに対して本件各建物の明渡しを求める本件訴えは、具体的な権利義務ないし法律関係の紛争の解決を求める訴訟であるから、法律上の争訟性を欠くものではなく、本件処分の効力の有無が右請求の当否を決する前提問題になっているとしても、裁判所としては、本件処分が日蓮正宗の自律的な決定によるものであるか否かを審理、判断し、それが日蓮正宗の自律的な決定によるものと認められるときには、これを尊重して請求の当否を判断すべきものである。もっとも、本件記録に照らせば、本件は、原審の引用する当裁判所第二小法廷平成元年九月八日判決の事案と社会的には同一視し得る一連の紛争の過程で生じた紛争の一つと見ることもできるのであって、この見地から考えると、右の判例に従って上告人らの訴えを却下した原審の判断には無理からぬものがあるともいい得るが、これが国民の裁判を受ける権利に係る問題である点を考慮すると、本件事案に限って原審の判断を是認するというのは困難である。

以上説示したところに従い、原判決を破棄し、更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すのが相当である。

(裁判長裁判官佐藤庄市郎 裁判官貞家克己 裁判官園部逸夫 裁判官可部恒雄 裁判官大野正男)

上告代理人色川幸太郎、同川島武宜、同宮川種一郎、同松本保三、同松井一彦、同中根宏、同中川徹也、同猪熊重二、同桐ケ谷章、同八尋頼雄、同福島啓充、同宮山雅行、同若旅一夫、同千葉隆一、同吉田麻臣、同松村光晃、同漆原良夫、同小林芳夫、同石井次治、同竹内美佐夫、同大口善徳の上告理由

《目次》

第一点 憲法二一条および二〇条違背

一 原判決の根本的誤謬

二 憲法二一条および二〇条が保障する宗教団体の自律権

三 自律権の尊重と裁判所の宗教的「中立」

四 最高裁判決の援用の誤り

1 「板まんだら判決」(最高裁昭和五六年四月七日第三小法廷判決)について

2 「蓮華寺判決」(最高裁平成元年九月八日第二小法廷判決)について

五 自律権行使の結果の存在

1 法主選任準則としての血脈相承

2 日顕上人の法主の地位

3 被上告人らの言動の異説性

第二点 裁判所法三条の解釈・適用の誤り

一 裁判所法三条の解釈・適用の誤り

二 法主の地位を否定する被上告人らの言動の実態

第三点 憲法三二条違背

一 原判決の憲法三二条違背

二 原判決による不当な結果

第一点 憲法二一条および二〇条違背

原判決には憲法二一条および二〇条の違背がある。

一 原判決の根本的誤謬

原判決は、「本件擯斥処分の効力の有無」が本件「各請求の前提をなし」、「その効力についての判断が本件訴訟の帰すうを左右する」ものであるところ、右判断をするためには「本件擯斥処分における処分権者及び懲戒事由についての判断が必要不可欠」であり、しかして右判断は「血脈相承についての控訴人らの言動が、日蓮正宗における教義、信仰を否定する異説であるか否か、又は血脈相承の意義及び血脈相承の存否」にかかっており、これらについては、「日蓮正宗の教義、信仰の内容に深くかかわっているため、右の教義、信仰の内容に立ち入ることなくしては判断することができない」から、本件訴訟は法律上の争訟に当たらないと断定する。

原判決の根本的な誤謬は、本件懲戒処分(懲戒事由についての判断も含む)および日顕上人の法主への就任問題が、日蓮正宗の自律権の行使の結果であることを全く看過している点にある。すなわち本件擯斥処分は、いうまでもなく、宗教団体内部でなされた懲戒処分であり、宗教団体の自律権の行使の結果なのであるから、以下に述べるとおり、憲法上尊重されなければならないものなのである。また、日顕上人の法主への就任問題(処分権者の地位)についても同様である。

二 憲法二一条および二〇条が保障する宗教団体の自律権

およそ私人の団体ないし部分社会であって一定の組織と規律を有するものは、結社の目的、性格、規模に応じた差異はあるものの、憲法二一条一項が保障する結社の自由のコロラリーとして、役員の選任や構成員の処分等の内部規律の実現の面において、自治を認められているのである。この点は判例・学説上もほとんど異論がない《註1》《註2》。

さらに宗教団体に至っては、憲法二〇条によって、世常一般の団体よりも一層高度の自主性と自律権を保障されているのである。けだし、同条による信教の自由の保障は、ひとり内心における信仰の自由、外部に対する信仰表現の自由にとどまらず、宗教活動の自由にわたることはもちろん、宗教的結社の自由にも及ぶことは当然であるからである《註3》。

したがって、宗教団体の人事(役員の選任や解任、構成員の処分等)についていうならば、これこそは宗教団体が自ら決すべきことであって、その内容が明らかに公序良俗に反する等の特別な場合でない限り、国家はこれに介入・干渉することは許されないと同時に、その決定した人事はそのまま認めなければならないというのが憲法二一条および二〇条にいう保障の意味である。

もとより人事だけではない。宗教団体の教義・信仰上の問題はもとより、組織、内部規律の貫徹、その他組織や活動にわたる広い範囲において、宗教団体は自律権を有するのであって、自律権の行使の結果たる事実については、国家はこれを尊重するということこそ、憲法二一条および二〇条の要請でなければならない《註4》《註5》《註6》《註7》。

以上のことは、我が国と同様の信教の自由条項を持つアメリカ合衆国、西ドイツ、フランス等の先進諸国においては、判例や学説によって承認されているところである《註8》。

原判決は、右憲法上の要請を無視し、およそ宗教団体の自律権については一言半句も言及することなく、法律上最も重要な論点の検討を欠いた粗雑な議論を無意味に重ねただけで、訴却下の判決に及んだものである。原判決が憲法二一条および二〇条に違反していることは明白である。

なお、裁判所が教義・信仰の内容に一切介入・干渉できないことは憲法二〇条の要請であるが、これは宗教団体の自律権を尊重するがゆえの帰結である。したがって、教義・信仰上の事項について自律権行使の結果たる事実が存在する場合には、これを尊重し所与の前提として裁判を行なうということこそが、教義・信仰への不介入・不干渉という憲法上の要請に従うことになるのである。宗教団体の懲戒処分の効力を判断する前提問題に教義・信仰上の事項が存在する場合において、裁判所はおよそその処分の効力を判断できないとすることは、宗教団体に限り、処分についての自律権行使の貫徹が――少なくとも司法的には――制限されるということになる。これは何ら合理性がないばかりでなく、きわめて不当である。

三 自律権の尊重と裁判所の宗教的「中立」

原判決は、宗教上の教義・信仰に関する事項については、「裁判所は中立を保ち、一切の審判をなしえない」と判示するが、宗教団体の自律権を尊重して審理判断することは、次に述べるとおり、裁判所の中立を何ら害することにはならない。

原判決がいう「中立」とは、政教分離原則の内容である「国家の宗教的中立」のことであると解される。しかし、政教分離原則にいう「国家の宗教的中立」とは、国家がすべての宗教に対して等距離に立つとともに、宗教を全くの私事にする(国家の非宗教性)ということであり、国家が一宗教を他の宗教より優遇するなど、国家と宗教の特別の結び付きを禁じたものであって、信教の自由を実質的に保障するための制度である。宗教上の教義・信仰の問題に関していうならば、どの宗教の教義・信仰が正しいかとか、ある宗教団体の中にあっていかなる教義・信仰が正統であり異端であるかなどということを、その教義・信仰の内容に立ち入って、裁判所が自ら実質的に判断することを禁じるものである。このことは、宗教団体の自律権を制度の側面から支えるものであって、裁判所の宗教的中立と宗教団体の自律権の尊重とは、相互に補完し合うものでこそあれ、何ら矛盾するものではない。宗教的「中立」の名をかりて、宗教団体の自律権を結果的に否定した原判決は、憲法二〇条を誤解したものであり、同二一条にも違背している。

ちなみに、「袴田事件」最高裁判決(《註1》(一))においては、政党の除名処分について、裁判所が政党の自律権を尊重し、処分事由の当否(思想的対立がその根底にある)には立ち入らずに実体判決をしている。そこにおいては、裁判所の「中立」などは何ら問題とされていない。宗教上の教義や信仰も「思想」の一発現形態である。処分事由が教義・信仰にかかわる場合に限り、裁判所の「中立」を理由に、処分自体についての判断を回避するのは、全く不合理といわざるを得ない。

四 最高裁判決の援用の誤り

思うに、原判決が宗教団体の自律権の存在に全く気づかず(もし気づいていたとすれば、何故にそれを尊重しないのかという理由を述べるのが裁判所の責務であろう)、かくの如き粗漏な判決をするに至ったのは、その挙示する二つの最高裁判決に安易に依拠したためであろうかと推察する。その姿勢を誤りであるとする所以は以下のとおりである。

1 「板まんだら判決」(最高裁昭和五六年四月七日第三小法廷判決)について

まず、板まんだら判決は、本件とは全く事案を異にし、先例とならない。

(一) 板まんだら判決の事案は、純然たる宗教行為である「供養」(宗教上の献金)をした者が、錯誤を理由に「供養」の無効を主張し、裁判でその返還を請求するというものであり、訴訟物自体が宗教上の請求と認められる、極めて特異なものであった《註9》。

また、そこで主張され前提問題となっていた錯誤の内容も、“創価学会は、「戒壇の本尊」を安置するための「正本堂」の建設費用に充てると称して寄付を募ったのであるが、同会が「正本堂」に安置したいわゆる「板まんだら」は、日蓮正宗において「日蓮が弘安二年一〇月一二日に建立した本尊」と定められた本尊でないことが本件寄付の後に判明した”、“創価学会は、募金時には、「正本堂」完成時が「広宣流布」の時にあたり、「正本堂」は「事の戒壇」になると称していたが、「正本堂」が完成すると、「正本堂」は未だ「三大秘法抄、一期弘法抄の戒壇」の完結ではなく「広宣流布」は未だ達成されないと言明した”というものであり、以上の判断をするに当たっては、信仰対象の宗教的価値判断および宗教上の教義解釈をなすことが不可避であるとともに、それ以外に法律上の見地のみで裁定しうる争点は何ら存在しなかった。

さらに、同事件の原告らは、訴訟を提起するに当たり“金員の返還が目的なのではなく、板本尊の真偽を法廷の場で争うことが目的である”旨を表明し、また現実の訴訟活動においても、板本尊の真偽論争および「戒壇」、「広宣流布」等についての宗教教義的意義づけに関する主張・立証がほとんどであった。つまり、同事件における権利関係の争いなるものは、宗教紛争を裁判所に持ち出すために法的に粉飾されたものにすぎず、訴訟提起の目的が法廷で教義解釈や宗教的価値判断を争うところにあったことは記録上も明らかな事案であったのであり、そのことは同判決が、「当事者の主張立証も右の判断〔信仰対象の価値又は宗教上の教義に関する判断〕に関するものがその核心となっていると認められる」と判示しているとおりである。

このような事案が裁判所の審判権の範囲外であることは多言を要しないであろう。

(二) これに対し、本件訴訟は私法上の所有権に基づく建物明渡請求であり、本件においては、裁判所に対し何らの宗教的価値判断や教義解釈は求めておらず、また、本件において前提問題となっているのは、宗教団体の自律的処分である懲戒処分の効力の有無なのである。しかして本件事案は、板まんだら事件とは全く事案を異にするのである。このような事案の相違に全く思いを至すことなく、板まんだら判決の中に示された抽象的法律論だけを援用して事足れりとするが如き態度は、およそ“判例とは何か”ということを弁えざるものといわざるを得ない。

2 「蓮華寺判決」(最高裁平成元年九月八日第二小法廷判決)について

次に、蓮華寺判決は、団体の自律権を尊重した過去の裁判例を全く考慮することなく(その点において大法廷に回付しなかったことには疑問が残る)、一箇独自の論法を駆使し、易々として訴却下の結論を出したのであって、この判決こそ、最高裁の権威のためにも、速やかに是正されるべきであると考える。周知の如く、学界の反応は極めて冷やかであり、公刊された幾多の判例批評は、判旨に反対するものが大多数であって、積極的にこれに賛成同調するものはほとんど見当たらない《註10》。この判決を鵜呑みにして、易々としてこれに倣った原審の態度は、裁判の権威のためにも遺憾とせざるを得ない。以下に蓮華寺判決の誤りの主要な点を指摘する。

(一) 蓮華寺判決は、「擯斥処分の効力の有無が本件建物の明渡を求める上告人の請求の前提」をなし、「その効力についての判断が本件訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のもの」であるところ、その判断をするについては、被処分者の言説が「日蓮正宗の本尊観及び血脈相承観に関する教義及び信仰を否定する異説に当たるかどうかの判断が不可欠」であり、それは「教義、信仰の内容に立ち入ることなくして判断することのできない性質のもの」であるから、該訴訟は法律上の争訟には当たらないと判示する。しかし、そもそも右擯斥処分は宗教団体内部でなされた懲戒処分であって、懲戒事由の存否の問題を含め、その処分の効力を論ずるにあたっては、憲法上保障されている宗教団体の自律権との関係が当然に検討されなければならない。同判決は、右論点を看過・没却し、安易に訴を却下した点において根本的な誤りを犯している。

(二) なお蓮華寺判決は、宗教上の教義・信仰に関する事項について、裁判所は「一切の審判権を有しない」とともに、「これらの事項にかかわる紛議については厳に中立を保つべきである」と判示して、最高裁昭和五五年四月一〇日第一小法廷判決(「本門寺判決」)を援用するが、これこそ、判決の読み違いというほかない。

蓮華寺判決が援用する本門寺判決の関係箇所は、「本来その自治によって決定すべき事項、殊に宗教上の教義にわたる事項のごときものについては、国の機関である裁判所がこれに立ち入って実体的な審理、判断を施すべきものではない」、との判示部分と思われる。

右判示は、宗教団体が自律的に決定すべき事項については、裁判所が立ち入って実体的な審理判断を行なうべきではないという当然の事理を述べたにすぎず、「教義、信仰に関する事項」について「一切の裁判権を有しない」(傍点上告人)とか、「これらの事項にかかわる紛議については厳に中立を保つべきである」などとは一言も述べていない。かえって、右判示の前段では、「宗教法人は宗教活動を目的とする団体であり、宗教活動は憲法上国の干渉からの自由を保障されているものであるから、かかる団体の内部関係に関する事項については原則として当該団体の自治権を尊重すべ〔きである〕」と説示し、自律権行使の結果が存在する場合にはそれを尊重して裁判をなすべきことを示唆しているのである。

さらにいえば、もともと本門寺判決は、宗教団体上の地位の存否について、裁判所の審判権が及ぶと判断された先例であって、右地位について審判権が及ばない場合の先例として援用すること自体が誤りである。

(三) さらに、蓮華寺判決が事案の全く異なる板まんだら判決を援用している点が誤りであることは、原判決の誤りについて前述したところと同様である(前記1参照)。

五 自律権行使の結果の存在

なお付言するに、本件擯斥処分が、日蓮正宗の所定の懲戒手続を経て行なわれたことは、原判決が認定しているとおりであり、これについては右処分の効力を覆す特別の瑕疵事由は存在しない《註11》。また、原判決が指摘する教義に関する事項についても、日蓮正宗において自律権行使の結果が明確に存在するのであり、次にこれについて述べておく。

1 法主選任準則としての血脈相承

日蓮正宗において、血脈相承とは、宗祖から歴代の法主を通して承継されてきた宗祖の血脈をただ一人体得している当代の法主が、これを次期法主たるべき者に承継される宗教行為とされている。それゆえ、日蓮正宗においては、血脈相承が法主の地位の取得準則とされているのであり、宗規一四条も右準則の存在を前提として解釈されるべきことは、第一審各判決が認定しているとおりである《註12》《註13》。

2 日顕上人の法主の地位

日顕上人が血脈相承を受けた法主とされていることについては、第一審各判決が認定しているとおり、日蓮正宗において自律権の行使の結果が明確に存在するところである(なお、《註7》参照)。

(一) 自律権行使の結果の存在

日達上人の逝去当日に開かれた緊急重役会議において、日顕上人が日達上人から血脈相承を受けた旨が公表され、その後、日蓮正宗の伝統・慣習に則り、法主就任の諸儀式が約九か月間に及んで粛然と執り行なわれ、翌五五年四月の「御代替奉告法要」をもって一連の諸儀式は終了した。右公表がなされた以降、日顕上人は法主・管長としての職務を執り行ない、宗内僧俗全員も日顕上人を法主と仰ぎ、約一年半の間、これに異議を唱える者は、被上告人らを含め、一人としていなかった。この間の状況に照らせば、日蓮正宗において日顕上人が血脈相承を受けた法主とされているという事実の存在は明白である《註14》ないし《註19》。

(二) 法主としての不動の地位

日顕上人が法主に就任し約一年半を経過した後、被上告人らは日顕上人の法主の地位を否定する言動を開始した。しかし、かかる言動をなすのは、被上告人ら一部の僧侶とそれに同調するごく一部の信者(「檀徒」)にすぎず、その数は日蓮正宗における全僧俗の一パーセントにも満たない。それらの者を除いた、大部分の僧侶および七五〇万余所帯の信者は、従前どおり日顕上人に信伏随従し、日蓮正宗は団体としての同一性を保ちつつ、日顕上人を中心とする確固たる組織のもと、厳然と宗教活動を行なってきている《註20》。他方、現在、被上告人らは日蓮正宗と一切の交渉はなく、独自の活動を続けており、もはや彼らが宗内に復帰する余地はない《註21》。

日顕上人が法主に就任して、既に一〇年以上の歳月を数える。現在、日顕上人の法主の地位に異議を唱える者は、被上告人らごく一部の者だけであり、日顕上人は日蓮正宗の法主として、宗内的にも対外的にも、客観的に覆しえない評価を得ている。かかる事実から見ても、日顕上人の法主の地位に関する自律権行使の結果の存在は明白である。

(三) 逆に、このように自律権行使の結果によって法主に就任し、その後も不動の地位にある日顕上人が関与した日蓮正宗の行為を、結果的にせよ、否定するに等しい措置を国家機関が行なうということは(懲戒処分の効力について判断を回避し、それを前提にして明渡請求訴訟を却下することはまさにそれに該当する)、宗教団体の自治に対する重大な侵害である。

3 被上告人らの言動の異説性

被上告人らの言動については、日蓮正宗が所定の手続を経て異説と裁定したことは、原判決が認定しているとおりである《註22》《註23》。

第二点 裁判所法三条の解釈・適用の誤り

原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな裁判所法三条の解釈・適用の誤りがある。

一 裁判所法三条の解釈・適用の誤り

裁判所法三条にいう「法律上の争訟」とは、具体的な権利関係に関する紛争であって、かつ法令の適用によって終局的に解決することができるものをいい、裁判所は、かかる紛争を審理判断する権限をもつと共に、そのような紛争を解決する責務を負う。したがって、具体的な権利関係に関する紛争が現に生じている場合、それを法令の適用による終局的解決に適しないとして裁判所の審判権の範囲外であるとする場合には、その判断は極めて慎重になされなければならない。しかして、具体的な権利関係に関する紛争が教義・信仰と関係している場合であっても、裁判所は、教義・信仰に立ち入らずに審理判断できる方法を検討する必要がある。

本件で争点となっている本件懲戒処分には、確かに教義に関する事項が関係する。しかし、上告理由「第一点」で述べたとおり、裁判所は、本件懲戒処分(懲戒事由についての判断も含む)および日顕上人の法主への就任問題について、日蓮正宗の自律権を尊重しなければならないのであって、自律権行使の結果(これはいうまでもなく裁判所の審判し得る客観的事実である)が存在するか否かを審理判断することにより、教義そのものに立ち入ることなく右各事項についての結論を出すことができる。しかして、かかる場合、裁判所は、本件紛争を法令の適用による終局的解決に適するものとして、爾後の審理を進める職責があるのである。ことに、被上告人佐野知道については、日顕上人から住職の地位の任命を受けていながら、同上人の法主の地位に関する本件異説を唱え、本件訴訟でも同上人の法主の地位を否定して擯斥処分の効力を争い、住職の地位は失っていないと主張するものである。裁判所は、少なくとも同被上告人については、法主の地位に関する右主張は信義に反するものとしてこれを排斥し、懲戒処分の点に関する日蓮正宗の自律権行使の結果の存否だけを審理判断するだけで足りる。

もとより、宗教団体の自律権行使の結果が存在しない場合には宗教団体の請求は実現しないのであって、このような審理判断方法が宗教団体に偏するものでないことは言うまでもない。

しかるに、本件訴訟を審判権の範囲外であるとした原判決は、裁判所法三条の解釈・適用を誤ったものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

二 法主の地位を否定する被上告人らの言動の実態

なお、被上告人らが法主の地位を否定するに至った言動は、それがなされた経緯、その主張の内実等に鑑みるならば、複数の教義解釈の優劣を真摯に争ういわゆる「教義論争」とはおよそ異なり、法主の方針に不満を持つ者が反抗の手段として敢えて法主の地位を否定するに至ったにすぎないのであって多くの団体に生ずる「統制違反行為」と異なるものではない(《註18》《註19》参照)《註24》《註25》。それにもかかわらず、後に法主に不満を持つに至った者から、訴訟においてこのような主張がなされたからといって、わざわざ法主の地位の取得要件にまで遡って裁判所が審判を施さなければならないというのは、極めて非常識とさえいえるのである《註26》。

第三点 憲法三二条違背

原判決には憲法三二条の違背がある。

一 原判決の憲法三二条違背

1 原判決は、宗教団体における異端を理由とする懲戒処分(あるいは教義・信仰に関わる懲戒処分)について、裁判所はその処分の効力を判断せず、結局その点の判断を前提問題とする一切の具体的法律関係を不確定のまま放置するというものである。法治国家においては、自力救済が原則的に禁止されており、その反面において、国民に裁判を受ける権利が保障され、法律上の紛争は裁判所が終局的に解決する建前となっている。宗教団体が当事者となっている訴訟にあっては、教義・信仰とのかかわりを有するものが少なくないのであり、具体的な権利関係に関する紛争であるにもかかわらず、原判決のように、司法的救済の途を閉ざすことは、自力救済が認められていないことを考えあわせると、宗教団体の裁判を受ける権利を不当に制約するものである(ちなみに、第一審の千葉地裁判決は同様の指摘をしているのであるが、原審がこの点につき一顧だに与えなかったことは遺憾である)。

2 ところで原判決は、「宗教上の教義・信仰に関する事項については、裁判所は中立を保ち、一切の審判をなしえない」と判示する。この意味は必ずしも分明でないが、仮りに教義・信仰に何らかのかかわり合いがある紛争については、裁判所は「中立」保持のためにその審理・判断をなし得ないという趣旨であるとしたら、極めて問題である。裁判所が紛争に直面した場合、中立をきめこみ、当事者のどちらにも与しない、というのは裁判の機能を無視した議論である。当事者間に権利義務に関する紛争があって、法令の適用で裁断できる余地が少しでもあるときには、裁判所は、一切の思惑に囚われず、断乎として黒白を決すべきであって、その結果、一方が勝訴し他方が敗訴するのは当然なのである。かかる態度があればこそ、国民は裁判所に信をおき、希望をつなぐのである。紛争の解決が裁判所に求められているにもかかわらず、十分な工夫をこらさず、軽々に裁判所の中立性に名をかりて拱手傍観するにおいては、裁判所の職責放棄であり、国民の裁判を受ける権利の否定以外の何ものでもない。

二 原判決による不当な結果

本件と同種の事案が各地の裁判所に係属している。そして既に下級審判決のあったのも相当数にのぼるが、そのすべてが寺院側の勝訴であった。しかるに、ひとたび「蓮華寺判決」が公にされるや、その直後からの判決は、僅かの例外を除いて、これに追随したものばかりである。喩えていえば、強風ひとたび吹いて萬草靡き伏した感がある。しかしながら、それが裁判所本来の在り方であろうか。かかる状況下において、寺院建物をめぐる紛争はどうなったか。日蓮正宗の少なからざる寺院とその礼拝施設は、ここ数年来、既に僧籍を失った者たちの不法占拠下に在り、宗団本来の宗教行事は全く杜絶され、多数の信者は困惑をきわめている。裁判所が一切の救済を拒み、その紛争を放置する以上、民事上の権利の擁護は自らの手でなすほかないが、そうなったとすれば、社会の混乱は愈々増大する。原判決には憲法三二条違背があるとする所以である《註27》。

《註1》 私的団体の自治を認める次のような判決例がある。

(一) 政党の除名処分に関して、第一審東京地裁八王子支部昭和五八年五月三〇日判決(判例時報一〇八五号七七頁)、控訴審東京高裁昭和五九年九月二五日判決(判例時報一一三四号八七頁)、上告審最高裁昭和六三年一二月二〇日第三小法廷判決(判例時報一三〇七号一一三頁)「袴田事件」

(二) 私立大学の退学処分に関して、最高裁昭和四九年七月一六日判決(判例時報七四九号三頁)「昭和女子大事件」

(三) 労働組合の懲戒処分に関して、大阪地裁昭和四四年九月二五日判決(労民集二〇巻五号一〇〇一頁)

(四) 自治会の除名処分に関して、名古屋高裁昭和三八年五月一六日判決(高民集一六巻三号一九五号)

《註2》 佐藤幸治「集会・結社の自由」芦部信喜編『憲法Ⅱ人権(1)』六〇七頁。なお、部分社会論についての論稿としては、佐藤幸治「『部分社会』と司法権」同『現代国家と司法権』一四七頁以下、同「『部分社会』論について」判例タイムズ四五五号二頁以下、同「司法権と団体内部の紛争(1)〜(3)」法学セミナー三二〇号一〇六頁以下、三二一号一二六頁以下、三二二号一〇八頁以下などがある。

《註3》 新堂幸司「宗教団体内部の紛争と裁判所の審判権(四)」法学教室二六号三九頁。《註4》(一)の判決参照。

《註4》 同趣旨を判示する次の下級審判決例がある。

(一) 京都地裁昭和五三年二月二七日判決(安武敏夫「宗教団体内部の懲戒処分と裁判所法第三条第一項」龍谷大学宗教法研究会編『宗教法研究』第一輯一一九頁)「近松別院事件」、およびその仮処分事件である京都地裁昭和五二年五月二〇日決定(判例時報八六九号八八頁)

右本案の判決は、「本件懲戒処分が法律上の争訟の対象となり得るものとしても、宗教団体の自律性の観点から裁判所がこれに介入できるか否かが問題となる。一般に民法は私人間の法律関係についてはできる限りその意思を尊重し、公序良俗もしくは公共の福祉に反しない限りこれに干渉しないことを立前としており、このことは私人の自由な意思に基づいて構成される団体内部の法律関係についても同様にあてはまるところである。従って、自律的な規範をもつ団体の内部規律の問題である懲戒処分については、裁判所はそれが公序良俗もしくは公共の福祉に反しない限り干渉することはできず、具体的には、当該懲戒処分が適正な手続に従って行なわれていないと認められる場合か、もしくは、処分の基礎とした事実の重要な部分に誤認があると認められる場合か、もしくは処分が社会観念上妥当を欠き懲戒権者に任された裁量権の範囲を越えるものと認められる場合を除き、懲戒権者の裁量に任されているものと解すべきである。ところで、右の団体が宗教団体である場合には、憲法二〇条、宗教法人法一条二項は信教の自由を保障し、とりわけ同法八五条は裁判所が宗教上の人事に干渉してはならない旨を規定しているところ、本件懲戒処分は右宗教上の人事にあたり裁判所がその処分内容を深く詮索し直接もしくはそれに近いかたちでその適否を判断することとなれば、実質的には国家による宗教の統制を導きかねないことを考慮すること、懲戒権者に任された裁量の範囲は一層広く、具体的には、当該懲戒処分が手続上著しく適正を欠くと認められる場合か、もしくは全く事実上の根拠に基づかないと認められる場合か、著しく妥当を欠き裁量権者に任された裁量権の範囲を越えるものと認められる場合を除き、懲戒権者の裁量に任されているものと解すべきである。」と判示する。

(二) 大阪高裁昭和五二年五月二六日判決(判例時報八六一号七六頁)「生野カトリック教会事件」

同事件は、生野カトリック教会主任司祭が、カトリック教の根本教義に反する内容の冊子を発表・頒布したことを理由に司祭の地位の解任処分を受けたのに対し、解任の効力を争って、右地位の確認を求めた事案につき、大阪高裁は、「〔解任の〕効力について考えるに際しては憲法で保障された信教の自由を有する被控訴人司教区がその教義に従ってなす処分につき教義批判の上に立って当不当の判断をなすことは許され〔ない〕」とし、「本件解任については、その内容および手続に関し公序良俗に反する等これを容認することが我が国の国家秩序に照らし許されぬと認められるような特段の事情がない限り、これを有効と解すべきである」と判示して、右特段の事情は認められないので処分は有効であるとして、被処分者からの請求を棄却した。

(三) 名古屋高裁昭和五五年一二月一八日判決(判例時報一〇〇六号五八頁)「聖心布教会事件」

同事件は、聖心布教会の会員が、同教会を含むカトリック教会の自治規範であるカノン法および典範に定める「重大な外部的醜聞」および「コムニタスにとって急迫する重大な害悪」に該当するとして退会(除名)処分に付されたのに対し、処分の効力を争って、会員たる地位の確認を求めた事案について、同判決は、「当該宗教団体内部においてのみ自治的に決せられるべき教義の解釈、判断、適用に関しては、世俗裁判所において、その当否を判断することは許されない〔中略〕本件除名処分の効力の判断に当たっても、除名理由がカトリック教の教義にかかわりをもっていることに鑑み、その適用規範、その処分内容および手続について、カノン法および典範の各法条の解釈、適用を行なうものではなく、専らこれについて公序良俗違反等これを容認することが我が国の国家秩序維持の面からみて許されないと認められような著しい裁量権の逸脱があったかどうかの観点からその効力を判断すべき」と判示した。

そして、「〔本件〕除名処分の効力を考えるに当たっては、本件除名処分の理由とされるものが三誓願違反であり、カトリック教の教義に違反したかどうか、また違反内容の重大性、緊急性の程度をどのように評価するか等宗教上の教義の内面にわたる解釈、評価、判断の問題に関するものである点からして、世俗裁判所がこれに関与することは、まさに宗教裁判所の裁判を代行することにほかならず、それは、世俗裁判所が本来宗教団体内部の自治に委されるべき宗教上の教義に介入することを意味し、許されない」としたうえ、「本件除名処分は、〔中略〕著しい裁量権の逸脱と目すべき点はない。したがって、本件除名処分は有効であり」元会員はその地位を喪失したと判示し、被処分者からの請求を棄却した。

これに対し被処分者は上告したが、最高裁昭和五六年(オ)第三二七号昭和五八年九月八日第一小法廷判決は「原審の認定判断は〔中略〕正当として是認することができる」として右上告を棄却し、原判決を支持した。

《註5》 このような考え方を示すものとして、次のような論稿がある。

新堂幸司「宗教団体内部の紛争と裁判所の審判権(四)」法学教室二六号三九頁。

同「審判権の限界――団体自治の尊重との関係から――」『講座民事訴訟法第二巻』二二〜二三頁、同二五頁、特に同頁の註(19)。

篠田省三「最高裁判所判例解説民事編昭和五六年度〔14〕事件」(「板まんだら事件」)『最高裁判所判例解説民事編昭和五六年度』二二五頁。

松浦馨「宗教上の地位・信仰対象をめぐる紛争と法律上の争訟(一)」民商法雑誌九四巻二号一〇八頁。

同「民事訴訟による司法審査の限界」竜嵜喜助先生還暦記念『紛争処理と正義』一五〜一八頁、二四〜二七頁。

同「宗教団体内部紛争と裁判権の限界」『平成元年度重要判例解説・最高裁平成元年九月八日第二小法廷判決』ジュリスト九五七号一二一〜一二三頁。

安武敏夫「宗教的判断事項に関する一考察(上)」判例時報一一七七号一七二頁(判例評論三二五号一〇頁)。

伊藤眞「宗教団体の内部紛争と裁判所の審判権――最高裁平成元年九月八日判決をめぐって――」判例タイムズ七一〇号一一〜一二頁。

桐ヶ谷章「宗教団体の自治と司法権の介入」東洋学術研究二六巻一号一六二〜一六六頁。

同「日蓮正宗異説訴訟――宗教団体内部の自律権と裁判所の審判権――」創価法学一八巻四号一四八頁。

《註6》 甲第二三号証「新堂鑑定書」(資料①)、甲第一一三号証「三ケ月第一鑑定書」(資料②)、甲第一一二号証「三ケ月第二鑑定書」(資料③)、甲第一一四号証「松浦鑑定書」(資料④)参照。

《註7》 日蓮正宗における血脈相承の意義・存否等を、同宗における自律結果を尊重して判断すべき旨を判示するものとして、本件第一審各判決の他に次の判決がある。

(一) 松江地裁平成元年二月二二日判決(判例時報一三〇七号一二九頁)

(二) 東京地裁平成元年四月一三日判決(判例時報一三一二号一〇四頁)

(三) 宇都宮地裁平成元年四月二七日判決

(四) 福島地裁平成元年四月二八日判決

(五) 京都地裁平成元年五月二五日判決(判例タイムズ七一五号二五四頁)

(六) 青森地裁平成元年六月二七日判決(判例タイムズ七一四号二三八頁)

(七) 大津地裁平成元年一一月二〇日判決

殊に、(一)の松江地裁判決は、本文に述べたように判断することが、「裁判権による介入を最小限に抑えつつ法律上の争訟の解決のためにできる限り審理判断をするべきであるという立場に合致し、宗教団体の自治を保障した諸法規の精神に沿うものと考えられる」と判示し、また、(五)の京都地裁判決は、「同宗の団体としての自治結果がすでに存在しているならば、これをそのまま裁判の基礎として審判することが、法律上の争訟の解決を任務とする裁判所の立場に合致し、また、宗教団体の自治を保障した憲法二一条一項、二〇条一項一文の趣旨に適うものと考えられる」と判示する。

《註8》 アメリカにおける原則については、甲第一二二号証「トライブ鑑定書」(資料⑦)参照。

また、アメリカにおいては、一八七一年の「ワトソン対ジョーンズ事件」以来、宗教団体はその信仰・教義・慣習・内部規範・規律等の問題はもとより、統治の問題をも、国家や州の干渉を受けることなく自由に決定する権限を有し、そのような決定が存在する以上は、裁判所は当該事件を解決するにあたり、その決定を最終的かつ拘束力のあるものとして受け入れねばならない、という原則が連邦最高裁の判例として確立している(甲第一一六号証「ワトソン対ジョーンズ事件」判決〔資料⑧〕、甲第一一七号証「セルビア事件」判決〔資料⑨〕。なお、アメリカにおける判例の発展・確立過程を紹介・論及したものとして、池田光晴「裁判所は宗教教義の審査ができるか――修正第一条の一面――」創価法学第六巻二号一頁以下参照)。

ドイツにおいても同様の原則が確立していることについて、甲第二四号証「ツヴァイゲルトおよびプットファルケン鑑定書」(資料⑥)参照。

フランスにおいても同様の原則が確立していることについて、小泉洋一「宗教上の紛争に対するフランスの裁判所の態度」阪大法学一三七号四五頁以下、特に七三頁。同論文は、フランスにおける宗教上の諸紛争に対する裁判所の対応を分析したうえで、次のように総括している。

「宗教領域における国の無権限の原則はフランスのライシテの基本的な側面である。この原則は国の裁判所にも妥当し、政教分離の下にある裁判所は宗教領域に介入する権限を持たない。したがって、宗教上の紛争を審判する権限は裁判所には属しない。この法理は判例においても一貫して認められてきた。教義上の問題についての裁判所の審査権は否定される。教会当局あるいは宗教教師による教会法、宗教的戒律の解釈、適用の適否についての審査権も否定される。裁判所はこのような事項を専ら宗教教師、そして教会当局の判断に委ねることにし、それについての審査を厳に差し控える。したがって、例えば具体的訴訟事件において、前提問題として高位聖職者による宗教教師の任命、懲戒等の教会法上の効力が争われても、裁判所はそのような紛争の終局的解決をするのを拒否する。裁判所としては、その効力を自らが審査することなく、高位聖職者による教会法の適用の結果生じた事実状態をそのまま受け入れて事件を処理することになる。その際裁判所が審理するのは、高位聖職者による任命、懲戒等がなされたのか否かという事実の点に止まるのである。」(傍点上告人)

《註9》 この点を指摘するものとして、例えば、次のような論稿がある。

松浦馨「民事訴訟による司法審査の限界」一一頁。

新堂幸司「宗教団体内部の紛争と裁判所の審判権(三)」法学教室二五号一〇〇頁〜一〇一頁。

竹下守夫「宗教団体内部においてされた懲戒処分の効力を前提問題とする具体的な権利義務ないし法律関係に関する訴訟と裁判所法三条にいう法律上の争訟」民商法雑誌一〇二巻三号一一三頁。

桐ヶ谷章「宗教上の事項と法律上の争訟――最高裁「板まんだら判決」とその後の下級審裁判例の動向――」宗教法五号六九頁。

《註10》 蓮華寺判決に対する批評として次のものがある。

(一) 判旨に反対し、あるいは疑問を呈するもの

大沢秀介「宗教団体の内部自治と司法権」ジュリスト九四七号八三頁。

伊藤眞「宗教団体の内部紛争と裁判所の審判権――最高裁平成元年九月八日判決をめぐって」判例タイムズ七一〇号四頁。

松浦馨「宗教団体内部紛争と裁判権の限界」『平成元年度重要判例解説』ジュリスト九五七号一二一頁。

竹下守夫「宗教団体内部においてされた懲戒処分の効力を前提問題とする具体的な権利義務ないし法律関係に関する訴訟と裁判所法三条にいう法律上の争訟」民商法雑誌一〇二巻三号一〇五頁。

同「宗教団体の処分を前提とする法律関係と法律上の争訟性」民商法雑誌一〇二巻三号一四一頁。

市川正人「宗教団体内部の懲戒処分と司法権」法学教室一一五号九四頁。

佐藤幸治『新版憲法』(現代法律学講座5)四四二頁。

長岡徹「宗教団体内部においてされた懲戒処分の効力を前提問題とする具体的な権利義務ないし法律関係に関する訴訟と裁判所法三条にいう法律上の争訟」判例評論三七七号五八頁(判例時報一三四六号二二〇頁)。

(二) 蓮華寺判決を善解・擁護するもの

魚住庸夫「時の判例」ジュリスト九四八号二〇〇頁。

《註11》 被上告人らは本件懲戒処分に対する瑕疵事由を主張するが、次のとおり、それらはいずれも、右処分の効力を覆す特別の場合には該当しない。

(一) 本件懲戒処分に対し、被上告人らは、自説は事実を述べたにすぎず、教義に関しては何も触れていないから異説とはならない、と主張して処分の効力を争う。

しかしながら、被上告人らが昭和五六年一月一一日付通告文をもって、日顕上人に対し、「貴殿には全く相承がなかったにもかかわらず、あったかの如く詐称して、法主ならびに管長に就任されたものであり、正当な法主ならびに管長とは認められない」と通告し、その内容を機関紙「継命」同月二二日号において公表したこと、被上告人らが日顕上人を相手どって提起した訴訟中において、「前法主細井日達上人の生前において相承がなされた事実は存在しない」、「阿部日顕の『法主』の地位は、宗制宗規にもとづかないいわば僣称にすぎず、正当な根拠がなく『就任』したものであり、阿部日顕『法主』は、本来存在しない」等の主張をなしたこと、以上の事実は当事者間に争いがないのであるから、右主張が本件懲戒処分の処分事由とされた事実の存否を争うものでないことは明らかである。

したがって、被上告人らの前記主張は、事実に対する評価(価値判断)の点のみを争うものであること、換言すれば被上告人らの言説を異説と判定した日蓮正宗の教義解釈が不当であると批難するにすぎず、無効事由の主張としては失当である。

(二) また、被上告人らは、日顕上人は管長の地位になかったと主張して、本件懲戒処分の効力を争う。

被上告人らの右主張は、要するに“日蓮正宗における法主の地位は「選定」という意思表示によって承継されるところ、日顕上人は日達上人から「選定」を受けていないから法主の地位にない”というものである。この主張は、法主の地位が被上告人らの主張する準則によって承継されることが前提となるところ、原判決も認定するとおり、右準則に関する被上告人らの主張は何ら根拠がない(逆に、血脈相承によって承継されることは証拠上明らかである)。それゆえ、それ以上の審理を施すまでもなく、被上告人らの主張に理由がないことは明らかである。

仮りに被上告人らが、法主の地位が血脈相承によって承継されることを認めたうえで、“日顕上人は血脈相承を受けていない”と主張するのであれば、右主張は血脈相承(裁判所の審判権が及ばない事項)そのものの存否についての審判を裁判所に求めることに他ならず、裁判所はかかる点について何ら審判を施す必要がないことになる。

《註12》 宗教団体の内部規則の中には、教義・信仰・伝統と深く結びついているため、それらを離れては正しく解釈できないものが少なくなく、このような規則を文言だけから解釈しようとすると重大な誤りを犯すことになる。宗規一四条は、まさにそのような規則である。

内部規則をどのように定立するかは当該教団の自治に委ねられているところであるが、その解釈・適用も当該教団の自治に依存する部分が多い。なかんずく、前記のような教義・信仰・伝統と深く結びついた内部規則の解釈・適用は当該教団の自治に大幅に委ねられ、教団内において自治的に確立されている解釈は尊重されるべきである(甲第二四号証の三「ツヴァイゲルト鑑定書」〔資料⑥の3〕四八節参照)。

宗規一四条に関する日蓮正宗の有権的解釈の内容は、早瀬証人が証言しているとおりであって(第二回尋問期日の証人調書一〜七七項。特に五八項以下)、法主の選任準則は血脈相承にほかならない。裁判所は、これを採用して判断の基礎とすべきである。

《註13》 実際に、明治以降の例を通観しただけでも、成文規則の変遷にかかわりなく法主の地位が例外なしに血脈相承と呼ばれる宗教行為によって承継されていることが明らかに認められ(原告第七準備書面「第二、四」参照)、これらを綜合すれば、日蓮正宗における法主の地位承継の実際を外形的に観察するだけで、何ら教義内容に立ち入らずに、同宗において、血脈相承なるものが法主の地位取得要件とされている旨を認定することが可能である(原告第七準備書面「第一、三、3」参照)。

《註14》 法主・管長の地位の宗内確定

(一) 法主・管長就任の経過

(1) 緊急重役会議における発表――日達上人の逝去当日(昭和五四年七月二二日)午前一一時一〇分より総本山大石寺において緊急重役会議が開催され、これに日顕上人(当時総監)、椎名重役(以上が当時の重役会構成メンバー)、能化(権僧正以上の僧階にある者で日号を称する。宗規一四条三項にいわゆる法主選定のための協議をするメンバーでもある)の一人である早瀬日慈ならびに藤本栄道庶務部長(現在総監)が出席した。その席上日顕上人から、昭和五三年四月一五日に日達上人より血脈相承を受けていた旨が発表され、他の出席者一同は謹んで拝承した。

(2) 宗内への公表――その後午後七時より宗内のほとんどの僧侶が参加して、日達上人の密葬通夜が行なわれた。その席上、椎名重役から血脈相承に関する右の次第が述べられ、一同は謹んでこれを拝承した。また、同日付院達、翌日付院達をもって日顕上人の法主・管長への就任が重ねて宗内に通達された。

(3) 「御座替式」ならびに「御盃の儀」――昭和五四年八月六日総本山大石寺において伝統的な法主就任の儀式である「「御座替式」が、宗内僧俗の代表の参加のもとで行なわれた。その後引続き、総監、重役、能化全員ならびに宗会議長をはじめとする宗内の主だった僧侶と信者の代表とが参加して「御盃の儀」が執り行なわれた。この儀式は日顕上人の登座を祝うとともに、新しい法主との師弟の契りを固めるという宗教上の意義を有する。

(4) 管長訓諭――同月二一日、日顕上人は法主・管長の就任にあたり次のとおり訓諭(管長が一宗を導するために発する達示で宗内では最も重要な指南)を発した。「野衲曩ニ日達上人ヨリ血脈相承ヲ受ケ本年七月二二日総本山第六七代ノ法燈ヲ嗣ギ本宗管長ノ職ニ就キマシタ」。

(5) 「御代替奉告法要」――翌五五年四月六日、七日、総本山大石寺において、全僧侶及び多数の信者の参加のもとに「御代替奉告法要」が執り行なわれ、日顕上人の法主就任が宗祖日蓮大聖人に奉告され、宗内に披露された。

(二) 法主・管長としての職務遂行

日顕上人は法主・管長に就任して以来、今日に至るまで、本尊書写をはじめとする法主としての職務、住職・主管の任免をはじめとする管長としての職務、日蓮正宗や大石寺などの法人の代表役員としての対外的な職務を広範に行なってきており、この間宗内の僧俗や諸機関からも何ら異議を唱えられたことはなかった。

(三) 法主・管長の地位の宗内確定

右のとおり、日顕上人の法主・管長への就任に際しては公式的かつ公権的な儀式が履践され、同上人は就任以来法主・管長としての職務を滞りなく執り行なってきたのである。その間宗内の誰人からも、またいかなる機関からも異議が唱えられたことはなく、同上人の法主就任は宗内的に二義のない明白なものとなっていた。

《註15》 一般にカリスマ的最高統率者を戴く宗教団体においては、その最高統率者(本件では「法主」)が誰であるかということは、その正統の教義が何であるかということと並んで、当該宗教団体が同一性をもって存続することができるか否かにかかわる宗教上の重大問題なのであって、当該宗派内のすべての構成員に対し、それを明確に告知し周知させることは、当該宗教団体にとって最重要の課題なのである。それゆえ、そのような宗教団体においては、そのための特別の公式的・権威的・要式的な行為ないし手続を定めて忠実にそれを履践するのを常とする。具体的に言うと、それは、一定の機関によって当該宗教団体の行為として行なわれるという意味において「公式的」(offi-cial)であり、また、一定の権威ある機関により権威を印象づける方式を伴って行なわれるという意味において「権威的」(authoritative)であり、さらにまた、誰が最高統率者に就任したかを印象づけるための一定の外形(衣服・持ち物・着座・呼称・敬語等)を伴うべきものとされる――「要式的」(for-mal)である――のが普通である。したがって、その性質上、その存在は宗派内のすべての人々にとって極めて印象的かつ顕著である。

日蓮正宗もその例外ではない。何びとが血脈相承を受け法主に就任したかは、同宗が同一性をもって存続するための最重要の問題であって、血脈相承を受けたものが法主に就任したことを宗派の全構成員に周知させるために告知する公式的・権威的かつ要式的な独特の行為ないし手続が存在しており、日顕上人の法主就任に際しても、それら(訓論・院達等の公式的発表、御座替式・御代替法要等の伝統的儀式)が厳格かつ権威的に執り行なわれ、日顕上人の宗教上の地位(法主の地位)が全宗派内で極めて確然たる事実となっていることは、公然かつ明確な客観的事実なのである。それゆえ、裁判所はこれらの社会的諸事実に基づいて、「日蓮正宗において、日顕上人は日達上人から『血脈相承』を受けて法主に就任したとされている」という社会的事実を審理・判断できるのである。

《註16》 極めて正常な形態の法主就任

日顕上人の法主就任が直ちに宗内で何らの問題も生じなかったのは、日顕上人の法主就任が日蓮正宗として極めて正常な形態であったからに他ならない。すなわち、日蓮正宗において血脈相承はただ一人の者に対してのみ授けられ、その者が法主に就任する。この法主の地位の承継に関する同宗の根本教義からすれば、同時期に複数の者が血脈相承を授けられることはありえず、現にそのような事態は同宗七百年の歴史において一度たりとも生じたことはないし、逆に、一人の血脈承継者も現れないということは、その時点で宗祖の血脈が断絶したということに他ならず、同宗が存立根拠を失って崩壊することを意味する(そのような異常事態は同宗の構成員にとって想像すらできないことである)。

被上告人らは日顕上人の法主就任にさも重大な疑義が存するかのごとく主張するが、日達上人の逝去後に法主を名乗る者は日顕上人ただ一人であって、宗内僧俗全員は直ちにこれを謹んで拝承し、日顕上人の法主就任の諸儀式が日蓮正宗の伝統に則って滞りなく執り行なわれ、日顕上人は今日まで法主・管長としての職務を支障なく遂行してきている。すなわち、日蓮正宗の根本教義ないし伝統に照らせば、日顕上人が法主に就任した経緯は、法主の地位の承継として極めて自然で正常な形態なのである。このことは、被上告人らが日顕上人の法主の地位に疑義を唱え始めるまでに一年半もの期間があったこと、被上告人らが日顕上人の法主の地位を否定するに至った後もそれに同調する者はごく僅かの者にすぎなかったこと、また、その時点から今日まで約一〇年余が経過したが、他に誰ひとり法主を名乗る者は現れず、また被上告人らも誰が法主であるかを示しえないことからも明白である(もし日顕上人が法主でないとすれば、日蓮正宗に血脈承継者はいないことになり、同宗は宗派として存続しえないことになる)。

《註17》 後に日顕上人の法主の地位を否定するに至った被上告人らも、当時は全員が日顕上人を法主と仰いでいた。その一例として、昭和五四年八月二五日に被上告人らが開催した第三回全国檀徒総会において、登壇者は次のように発言している。

(一) 丸岡文乗「開会の辞」(甲第六八号証=「第三回日蓮正宗全国檀徒総会紀要」一九〜二〇頁)

「今ここに、我々は第六七世御法主日顕上人猊下を奉戴いたしました。私共平僧侶は一体となって、日顕上人猊下を、私共を成仏へ導いて下さる御師範と仰ぎ奉ってご奉公せねばなりません。」

(二) 佐々木秀明「現況報告」(同二一〜三二頁)

「幸いにも、第六七世日顕上人に、早々と御相承遊ばされておりまして、この日顕上人の御指南のもとに、一致団結して行くことが、御先師日達上人に御報恩奉ることである。」

(三) 渡辺広済「身延離山のご精神を今一度」(三九〜四四頁)

「日蓮正宗は、本門戒壇の大御本尊と、御法主を中心と仰ぐ宗旨でございます。さきほど御出仕を賜りました現六七世日顕上人は、日達上人より血脈相承遊ばされ、今、私共に大聖人のお心をお伝え下されておるのでございます。」

(四) 荻原昭謙「諸注意」(五〇〜五五頁)

「最近某週刊誌に某檀徒の発言といたしまして、血脈相承の問題、又、おそれ多くも御法主上人猊下に及び奉ることがらを得意になって云々している記事が目につきました。私共指導教師といたしまして顔から火が出るほど恥ずかしく、又、大変なさけない思いをいたしました。これはもはや檀徒でもなければ信徒でもありません。さきほどよりの皆々様のお話しと重複いしたますが、当宗の信仰は、御戒壇様と血脈相承の御法体に止まるのでございます。御戒壇様、大聖人様の人法一箇の御法体を血脈相承遊ばす御法主、代々の上人を悉く大聖人と拝し奉り、その御内証・御法体を御書写遊ばされたる御本尊に南無し奉るのでございます。これに異をはさんで何で信徒と申せましょう。また、何で成仏がありましょう。師敵対大謗法の者でございます。」

なお、全国檀徒総会は「正信覚醒運動」を進めると称する僧侶と「檀徒」(被上告人らの働きかけによって創価学会を脱会し、被上告人らの寺院に直属となった者)の大会である。後に日顕上人の法主の地位を否定するに至る僧侶らは、昭和五五年七月四日に正信会を結成するが、第三回全国檀徒総会の主催者は正信会の前身である「活動者グループ」の中心者達である。右の登壇者はいずれも、同総会の主催者であり、正信会結成後は中央委員となった者である。また、彼らは後に、第五回全国檀徒大会を主催したことを理由に、住職・主管罷免処分を受けている。

《註18》 管長の地位を否定するに至った経緯

日顕上人が管長の地位にないとの被上告人らの主張は、被上告人らが本件懲戒処分に対抗するための訴訟戦術として作り出した争点であり、単なる言い掛かりにすぎず、本来まともに取り上げるに値しない。このことは、次に述べる、被上告人らがかかる主張をなすに至った経緯を見れば明白である。日顕上人は極めて正常な形態で法主・管長に就任しているのであり(《註16》《註17》参照)、かかる状況において、後になって被上告人らが訴訟戦術として法主の地位を否定する挙に出たからといって、それにより法主の地位に関する自律権行使の結果に何らの消長をきたすものではない。以下に、被上告人らが日顕上人の法主・管長の地位を否定するに至った経緯の概略を述べる。

(一) 昭和五四年七月二二日に日顕上人が法主・管長に就任して以来、日蓮正宗の全僧侶(被上告人らを含む)は日顕上人に信伏随従し誰一人異議を唱える者はいなかった。被上告人らも第三回(同年八月二五日)、第四回(昭和五五年一月二六日)の全国檀徒総会に日顕上人の臨席を仰ぎ(第三回檀徒総会で登壇者が日顕上人を法主と仰ぐ発言をしていることにつき《註17》参照)、第五回檀徒大会の開催に当たってもその開催許可を日顕上人に求めるなどしてきた。また、第五回檀徒大会の開催を理由に主催者五人が住職罷免処分を受けたことで、一部の僧侶が日顕上人に公然と反抗的態度を取るようになった後においても、彼らは日顕上人が法主・管長であることを否定するまでには至っていなかったのである。

(二) 第五回檀徒大会の主催者として住職罷免処分を受けた五人は、処分を受けたことに対し、処分は無効であるとして寺院の引継ぎを拒み、昭和五五年九月から各寺院所在地の裁判所に代表役員地位保全の仮処分を申請して争った。右五人は右訴訟でも、当初は日顕上人を正当な法主・管長と認めつつ、法主にも誤りはあるという論法で懲戒処分の不当を主張して争っていたのである。しかしながら、法主の指南のままに信仰に精進するところに日蓮正宗の僧侶としての正しい信仰の在り方があるとする、同宗の伝統的な教義・信仰に立脚する限り、右のような論法では対抗しきれないため、ついに右五人は、窮余の策として法主の権威そのものを否定すべく、日顕上人は正当な法主・管長でないとの予備的主張を右訴訟において追加するに及んだのである(日顕上人の法主就任から一年半も経過した昭和五六年一月のことである)。そしてこれに呼応して、右五人を支援する被上告人ら正信会員は、日顕上人に対し、血脈相承の有無を問いただす質問状(乙第一九号証)、そして血脈相承を受けていないから法主・管長とは認められないという通告文(甲イ第三号証)を送り付け、その後、日顕上人の管長・代表役員の地位不存在確認の訴え等を提起していったのである。

(三) また、被上告人らは、訴訟戦術として日顕上人の法主・管長の地位を無理に否定した結果、その主張は日蓮正宗の伝統教義とは明らかに対立するものとなり、また、種々の点において矛盾・破綻を来し、その論拠は極めて薄弱なものとなっている(以上の点につき、原告第四準備書面、同第七準備書面五一〜七三頁参照)。

《註19》 管長の地位否定の実態

(一) 日顕上人の管長の地位を否定して懲戒処分の効力を争っている者の中には、当の日顕上人から住職・主管の任命を受けた者が数名いる。彼らは任命自体は「管長」の任命であったと強弁している。日顕上人から住職・主管の任命を受けながら、日顕上人の管長の地位を争っている者は次のとおりである。なお、冒頭の佐野知道は、本件被上告人の一人である。

常光寺(東京都所在)元住職佐野知道(昭和五四年七月二八日任命)

浄信寺(高知県所在)元住職藤野敬道(同日任命)

大乗寺(同県所在)元住職鎌田卓道(同日任命)

小田原教会(神奈川県所在)元主管佐々木秀明(昭和五五年五月一四日任命)

慈隆寺(徳島県所在)元住職長町任道(同年七月二二日任命)

泉涌寺(京都府所在)元住職江戸孝道(同日任命)

仏道寺(岡山県所在)元住職毛利正顕(同月二八日任命)

成満寺(島根県所在)元住職上地協道(同年九月一九日任命)

(二) 右のうち佐々木秀明は、宗務院の中止命令に違反して第五回全国檀徒大会を開催したことにより小田原教会の主管を罷免された者である。小田原教会は佐々木に対し寺院建物の明渡を請求し、佐々木は小田原教会に対し代表役員の地位確認を請求し、両事件は現在最高裁で審理中である(第一小法廷平成二年(オ)第五〇八号「小田原教会事件」)。

佐々木は、右事件に先行する仮処分事件において、本件被上告人らと同様に、日顕上人は管長でないから罷免処分は無効であると主張していた。佐々木は本人尋問の際にその矛盾を指摘されると、自分を主管に任命した時点では日顕上人は管長だったが、自分を罷免した時点では管長ではなくなっていたと答え、その理由は途中で日顕上人は信仰心が変わったからだなどと支離滅裂な供述をしている(甲第九八号証)。

本案訴訟になってから、佐々木は管長の地位を争う主張を放棄している。同事件で佐々木は、管長の地位に関する右主張を除き、種々の処分無効事由を主張しているが、第一審の横浜地裁小田原支部昭和六〇年六月四日判決(判例時報一一七二号九四頁)、控訴審の東京高裁昭和六〇年(ネ)第一五七五号平成元年一一月一五日判決は、いずれも、佐々木の主張には全て理由がなく、主管罷免処分は有効であると判断し、建物明渡請求を認容し、代表役員地位確認請求を棄却した。

《註20》 被上告人らが離反した後の日蓮正宗

(一) 被上告人らが日顕上人の法主の地位を否定して日蓮正宗から離反する言動を開始した後においても、日顕上人の法主・管長の地位には何らの変化はなく、日顕上人は従前と同様に、法主として種々の法要・儀式を主宰し本尊を書写するなど、滞りなく職務を遂行している。その一例を挙げると、昭和五六年一〇月一〇日から一週間にわたり総本山大石寺において、宗内僧俗多数参集のもと、日顕上人の主宰により「日蓮大聖人第七百御遠忌大法会」が盛大かつ厳粛に奉修され、その様子は公刊の雑誌(甲第六九号証「毎日グラフ」昭和五六年一一月八日号)にも掲載されるなど、宗内はもとより対外的にも日顕上人が法主・管長であることは明白となっている。

(二) 法主の血脈相承に異を唱えるという前代未聞の不祥事を深く憂慮した日蓮正宗の僧侶は、能化(権僧正以上の僧階にある僧侶)全員による声明文(甲第一七号証)、宗会議員全員による決意書(甲第一八号証)、教師資格を有する僧侶全員による各布教区ごとの決議文(甲第一九号証の一、二)等により、日顕上人が日達上人から血脈相承を受けた正統な法主であり、これに異議を唱える者は異説・異端の徒であると厳しく糾弾している。

《註21》 被上告人らの独自の宗教活動

擯斥処分を受けた被上告人らが日蓮正宗に復帰する途は特赦を受ける以外になく、特赦を受けるためには反省悔悟して一定年数を経過することが必要であるが(宗規二五九〜二六一条)、被上告人らに全く反省の色がないため特赦を受けうる余地もない。被上告人らは、日蓮正宗が教団として行なう宗教活動に一切参加しておらず、同宗の僧侶らとも一切干渉がない。のみならず、被上告人らは、宗外にあって日蓮正宗とは無関係の組織を作って、独自の宗教活動を行なっており、この意味からも被上告人らが日蓮正宗に復帰する余地はない。

《註22》 《註7》の(一)、(三)ないし(七)の各判決は、いずれも、異説を唱えたことを処分理由の一つとして懲戒処分がなされた事案に関するものであるが、いずれも、被処分者の所説は異説とされている”という、教団の自律権行使の結果が存在することを認定したうえ、これを積極的に裁判の基礎として、擯斥処分は有効であるとして、寺院から被処分者に対する建物明渡請求を認容し、被処分者から寺院に対する代表役員の地位確認請求を棄却している。

殊に、(七)の大津地裁判決は、蓮華寺判決後に言渡されたものである。これを見ても、蓮華寺判決の抽象的法理論がいかに脆弱なものであって、現場の裁判官に受け容れられ難いものであるかがわかる。

《註23》 もとより、異説を唱えたことを理由として教団が懲戒処分をなした以上、被処分者の言説が異説に当たる旨の宗教的判断が教団内においては先行しているわけである。しかしながら、それはあくまで宗教的次元での問題であって、右懲戒処分の効力を世俗の裁判所が事後的に審査するに際しては、異説に当たるか否かという点は審判の対象ともならないし、それゆえ争点ともならないのである。裁判所における審判の対象となるのは、教義裁定ないし懲戒処分が所定の手続を経てなされたか否かという点に限定されるのである。裁判所が自ら異説に当たるか否かを判断できなければ懲戒処分の効力を判断できないと考えることは誤りである。

裁判所が教義裁定の存在を外形的に認定したからといって、そのことが、教義・信仰の内容に立ち入って判断したことになるわけではない。これは、ある宗教団体がいかなる教義を標榜しているかという客観的事実を、裁判所が公刊の書物等によって認定したとしても、当該教義の内容に立ち入って判断したことにならないのと同様である。

《註24》 管長の地位を否定する主張が恣意的であること

《註19》に掲記したとおり、日顕上人の管長の地位を否定し懲戒処分の効力を争っている者の中には、同上人の管長としての資格によって住職・主管に任命された者も相当数存在するのであり(被上告人佐野知道もそのひとりである)、彼らもその任命自体はあえて争っていない(積極的に認めているといえる)。そのような矛盾した行動をとることじたい、日顕上人の管長の地位を否定する主張がいかに恣意的なものであり、本来無視して然るべきものであるかを示す何よりの証左である。

《註25》 管長の地位否定の論拠の薄弱さ

被上告人らは、日顕上人の法主・管長の地位を否定する論拠として、次のとおり主張する。日蓮正宗における法主の地位の承継は、法主の次期法主に対する「選定」という意思表示によってなされるところ、宗規一四条二項に基づいて日達上人が日顕上人を「選定」した事実はないから、このような場合、次期法主は同条三項により総監、重役、能化の協議によって「選定」されなければならないと。

かかる主張は日蓮正宗における法主の地位の取得準則とは相容れない主張であるが、仮りに被上告人の立場に立ったとしても、日顕上人が法主に「選定」されることに変わりはない。すなわち、日達上人の逝去当時の総監は現日顕上人であり、椎名重役と三人の能化全員(早瀬日慈、鎌倉日桜、小原日悦)は昭和五四年八月六日に行なわれた「御盃の儀」において、日顕上人を新法主と仰いで師弟の契りを固めているのである。このことは、被上告人らが主張する「選定」がなされたに等しいのであって、宗規一四条三項の協議を当時仮りに行なっていたとしても、日顕上人が法主に「選定」されることは間違いない。

かかる事実から見ても、日顕上人の法主への就任が極めて正常なものであり、被上告人らの主張が為にする言い掛かりの類に他ならないことは明らかである。

《註26》 訴えを却下することによって生じる不合理な事態

宗内において日顕上人の法主・管長の地位は確定しているにもかかわらず、後に信仰心を変え、もしくは不満を持つに至った者が訴訟でその地位を争ったという一事をもって、右地位には裁判所の審判権が及ばず、したがって訴訟全体が法律上の争訟に当たらないとして却下するようなことが仮りにもあれば、それは重大な誤りであると共に、次のような不合理な事態をももたらす。これはひとり日蓮正宗のみの問題にとどまるものではない。

(一) ある教団の中で懲戒処分がなされた場合に、被処分者が何らかの教義・信仰上の理由を持ち出して処分にかかわる者の地位を争っただけで、教団側からの請求を阻止できることになる。ことに、処分にかかわる者の地位が日蓮正宗における法主のように教義・信仰上の準則によって取得される場合には、被処分者がその地位を争っただけで、同様の結果となるのであるから、その不合理性は明白である。

(二) その結果、例えば被処分者が次のように主張して懲戒処分の効力を争った場合にも、教団側からの請求を阻止できることになる。

① 被処分者が数代前の法主の血脈相承を否定し、それを承継したとされる現法主の地位を争った場合、②法主就任後一〇年、二〇年といった長期間を経た後に、被処分者が現法主の地位を争った場合

右のような場合に裁判所の審判権が及ばないとして訴を却下することの不合理性は誰の眼にも明白である。本件被上告人らの主張もこれと何ら本質的な差異はないのである。

《註27》 上告人の裁判を受ける権利が不当に制約された結果、現に生じている不当な事態について何点かを指摘する。翻ってみるならば、これらの点からも、原判決が誤りであることは明白である。

(一) 権利関係が裁判で確定されないため、不安定な法律関係が不当に永続することになる。

寺院建物の明渡請求が却下されたことにより、上告人ら所有の寺院を被上告人らが事実上使用収益できることになるが、他方、代表役員の地位確認請求も却下され、被上告人らは地位を回復できなかったわけであるから、権利の帰属者と行使者が乖離するという不安定な法律関係が生ずることになる。

その結果、後任の代表役員は、寺院建物などを自ら管理することができないにもかかわらず、他方で建物所有者としての責任(例えば、民法七一七条の所有者責任など)や、代表役員としての責任を負わなければならないといった不合理な結果が生じる。また、双方の訴が却下されたことにより、被上告人らは代表役員の地位を回復できなかったわけであるから、被上告人らは上告寺を代表して法律行為をなしえないことになる。他方、後任の代表役員も寺院建物の占有を回復できなかったわけであるから、建物の修繕が必要となった場合にも現実に工事を行なうことは不可能であり、荒廃するにまかせるしかないことになる(現実に生じている問題である)。あるいは、公共のために境内地を収用する必要が生じた場合にも、誰を正当な代表者として交渉したらよいか不明だということになれば、公共事業の遂行にも支障をきたすであろう(これも現実に生じている問題である)。いずれも現実に直面している問題であって“紛争の歴史的解決を待つ”などと悠長なことは言っていられないのである。このような不合理な状態が続くことの不当性は明らかである。

(二) 財産関係について無法状態が容認される不当性と、これにより自力救済を誘発する危険性がある。

双方の訴が却下されたことにより、寺院建物の所有権をはじめ、法律上の財産権について、権利の帰属者と行使者が乖離するという無法状態を裁判所が認めたに等しい不当な結果が生じている。

被上告人らが寺院を不法占拠していることについて多数の信徒が忿懣やる方なく思っていたところ、宗門側は司法的解決を信じ、これら信徒を押さえるなどの良識的な態度を取ってきたが、このような無法状態が永続的に容認されるということになれば、もはや受忍の限度を越え、信徒らによる自力救済が誘発される危険性すら生ずる。

(三) 宗教団体内部で異端を理由とする懲戒処分がなされても、重要な部分で実効性が伴わなくなるという不当な結果を生ずる。

教義・信仰こそは宗教団体の命脈ともいうべきものであり、宗教団体において最高の価値を有する。宗教団体の構成員は一定の教義を信奉し、これに服することを条件として教団に加入するのであるから、その教義に反すれば教団から不利益処分を受けることを覚悟しなければならない。それゆえ、宗教団体において、構成員の宗教的異端は団体に対する重大な規律違反であり最も重い懲戒事由とされているのが一般である。このことは、一定の思想・信条のもとに加入する政党の構成員の場合と同様である。また、教団の命脈を否定しておきながら、その教団財産によって恩恵を蒙ろうとすることが自己矛盾であることも多言を要しない。

ところで、宗教団体内部において除名処分がなされた場合、被処分者に管理させていた宗教団体の財産を取り戻す必要がある場合がしばしば見られるその根拠となるものは私法上の請求権である。除名処分が異端を理由とした場合に、そのような財産的請求について司法救済の途が閉ざされるとするならば、懲戒処分の実効性は重要な部分で骨抜きとされ、宗教団体の運営にも重大な支障をきたすことになる。このような解釈・適用は、宗教団体の教義・信仰に関する自律を否定するものである。政党の除名処分に関する「袴田事件」(《註1》(一))と対比してもその不当なことは明らかである。

(四) さらに、原判決のような訴訟判決が横行すると、同種の事件に関して放置し得ないさまざまな問題が全国的に多発することになる。すなわち、末寺所属の日蓮正宗信徒の中には、係争寺院に墓地を有している者が多数いるが、擯斥処分を受けた元僧侶らは、これら信徒に対し、埋葬や改装を拒否したり墓参のため墓地に立ち入ることすら拒否するなど、墓地の使用を妨害している。そのため、被処分者と信徒との間に諍いが絶えず、信徒から妨害禁止の仮処分を得て執行せざるを得ない状況にある。

また、係争寺院に納骨を依頼している信徒も多数いる(これらの者は後任住職に管理料を支払っている)。ところが、これら信徒が係争寺院に遺骨を引き取りに行くと、被処分者は自分に対する管理料の支払いを要求し、遺骨の返還を拒否するなどの嫌がらせを加えている。

このような例は枚挙にいとまがない。ことが墓地・納骨といった、祖先・死者に対する敬虔な追慕の念に関係するものだけに、信徒らの現場での困窮は計り知れない。裁判所が司法的解決を拒否するならば、これらの事態は何ら解決を見ないことになる。問題解決まで耐えるよう日蓮正宗が信徒を押さえてきたため、流血の惨事は辛うじて免れてきたものの、一触即発の状態になったことは何度もある。司法的解決が望めないとなれば、今まで以上に危険な事態が各地で発生する可能性すらある。

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